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d y s t o n i a

1994年の秋より、ピアノを弾く折、意志通りに指が動かなくなるという症状が現れてきました。
「ジストニア」についての体験記です。


 03/04/08 はじめに
 03/04/10 最初の兆候 (1994年9月~1995年3月)
 03/04/16 あきらめの心境 (1995年4月~9月)
 03/05/02 いつの間にか、克服 (1995年10月~1997年7月)
 03/05/15 再発の予感 (1997年8月~2001年12月)
 03/05/20 弾けなくなって(2002年1月~12月)
 03/07/07 ジストニアとの診断 (2003年1月)
 03/10/17 リハビリの日々 (2003年1月~4月)
 03/10/31 自分なりに (2003年4月~10月)
 04/01/27 大きな波 (2003年11月~2004年1月)
 04/06/14 あとには引けない(2004年6月)
 04/08/27 本番2週間前 (2004年8月)
 05/03/14 いつになったら (2005年3月)
 09/12/05 レオン・フライシャー氏の番組を見て


ジストニアのリハビリレッスンを行います。
詳細は、mau960@hotmail.com(@を小文字に)まで、お気軽にお問い合わせください。
レッスンはこちらにて行います。



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レオン・フライシャー氏の番組を見て

昨晩のNHK芸術劇場 は、ピアニストのレオン・フライシャー氏の特集でした。
フライシャー氏が35年にわたる右手のジストニアを克服、両手での活動を再開したことは、勿論知っていました。
番組は、インタビュー編とコンサート前半は半分程見たものの、コンサート後半のシューベルトのソナタ21番は、まだほんのさわりしか見ることができていません。
「見る」...フライシャー氏の演奏時の手付を見れば、完治には遠いであろうことがよく分かります。

シューベルトのソナタ21番は、随分前にジストニアの記事 にも書いたように、ジストニアの症状が初めて現れてから、数ヶ月後に演奏した曲です。大学院の修了試験で取り上げたのですが、指使いを散々工夫、果ては音を抜いたり、最後はほとんどやけくそでの演奏、よくぞ卒業できたものだと思います。

氏の演奏姿を見ていると、その当時の感覚がなまなましく甦ってきます。
どうしてそのような手付になってしまうのかが手に取るように分かり、どんなにもどかしい感覚での演奏であるか、また、綱渡りの状態であるかを思うと、とてもまともに見てはいられないのです。

フライシャー氏は、35年かけて快復への希望を持つことができました。
私は、それよりもっともっと短い期間で、随分快復することができた...私の中では長い年月だったけれど、それでも、35年という年月を思うと、なんと短いことか。

簡単な和音ひとつまともに弾けず、それどころか、鍵盤に手をのせようとしただけで、捻れてしまうという状況からの快復...薬を使うこともなく、自己流のリハビリのみ。特別なことをしたわけではなく、一口に言えば"脱力"ということを、常に考えていたという感じです。
(ちなみに番組では、ピアノを弾く時だけに症状が出ると説明されていましたが、私の場合は、PC使用時、コップを掴もうとする時、エレベータのボタンを押そうとする時など、日常的に症状が現れていました)

今でも完治したわけではなく、試行錯誤、調子が悪くなると、また弾けなくなるのではないかという思いに捉われることもあります。でも、たぶん大丈夫だろうと、そのうちに、気持ちも調子も立て直すことができる...ジストニアとの付き合い方を、少しずつ学んでいるのでしょう。

取り組む曲も、その時々の手の調子によって選んでいる面もあります。ある曲を練習していて調子が悪くなると、これ以上弾くとまた弾けなくなるかも、と怖くなり、曲を変えることも少なくありません(今年のコンサートも、夏頃までは、オールシューベルトプログラムの予定ではありませんでした)。

それでも私は、たしかに快復しています。なぜここまで快復できたのか、それを進んで語るべきなのではないかと思うことがあります。ジストニアの確実な治療法は見つかっていない今、何かの役に立つことがあるかも知れない、と。

でも、非常に感覚的なことゆえ、私の力では、とても言葉にはできそうにない面が多々あり、医学的知識もない私が、中途半端に言葉にしてしまうことは、何かしら誤解を与えてしまうことが、きっとあると思うのです。

一体どうして快復したのか、自分自身にもよく分からない、説明できないことが、たくさんあります。そうした諸々を整理して、いつか言葉にしたい、することができればという気持ちは、あります。

フライシャー氏は、手がアップで放映されるにもかかわらず、よくテレビ放映を許可したものだと恐れ入ります。この症状を、少しでも多くの人に知ってもらいたい、そして、今苦しんでいる人たちに諦めてもらいたくない、希望を持ってほしいというメッセージを伝えたいという意味も込められているのか...氏の胸中は想像するしかありませんが、とにかく、大変な重みを感じます。

私は、ジストニアは全く関係なく、氏の音楽にとても感じ入るものがあります。シューベルトのソナタの録画は、時間のあるときに、ゆっくりと見て、聴いてみるつもりです。
私も、今、苦しんでいる人たちには、どうかあきらめることだけはしてほしくない、焦らず長い目で見てほしいと、心から願っています。

いつになったら (2005年3月)

ジストニアを患って、何より痛感したのは、「諦めないこと」と「焦らないこと」を両立させることの難しさ、である。ピアノを弾くことを、諦めたくはない。でも、ちょっと良くなったかなと思ったら、また悪くなることを繰り返すばかりで、月日は矢のように過ぎてゆく。いつ治るとの目処もたたない。まるで、弾けないことを確認するだけのために、ピアノに向かっているような日々...昨年、さすがに、本番2週間前に弾けなくなった時は、焦らずにはいられなかったが、それも「調子のいい時は弾けたのだから大丈夫!」と自分に言い聞かせ、何とか乗り切った。そして、こういう状況でも何とかなるのだ、と、自信にもなった。
その後、調子の波もかなり安定してきた。昨年12月頃は、随分支障なく弾けるようになり、これだけできれば2時間のソロライブをやることができるだろう!と、あれこれ具体的に考えるようになった。ただ、ジストニアの症状が全て消えたわけではなかった。症状は出るけれど弾ける、という状況に、少し不安もあったが、いかんせん、弾けるという事実はうれしかったし、この調子でいけば、全快は遠くないと思っていた。

この1年あまりに、少なからぬ曲を演奏した。難曲大曲はなかなか難しいにしろ、これだけ弾けて、「手のトラブルを抱えてます」と言ったところで、信じてもらえない、もしくは、たいしたことはないと一蹴されるであろう。しかし...

このところ、手の具合が下降線なのは、薄々感じていた。あれだけ安定していたのだから、一時的なものであろうと考え、無理しないよう気をつけてはいた。が、この一週間ほどで、また、弾けなくなってきたのだ。ある和音からある和音へ移る時、手首が変に上がって、指に力が入って固まる。アタマでは「この音を弾く」というのが分かっているのに、その音を弾こうとすると、手がひきつるような感じがして、思うようにいかない。ここでぐっと力を入れると弾けたりもするのだが、そんな無理はそう続かない。挙句は、鍵盤に手を置こうとすると、手がぎゅっと丸まってしまう感覚が出てきた。etc...

やはり、こんな不安定さを抱えて、2時間ライブなんてまだ無謀な話だ。6月の予定であったが、結局、日にちは決めずに、出来そうになったらその時にまた考える、ということになった。延期。4月のジョイントコンサートで演奏するラヴェルのソナチネは、こんな状況でも1、2楽章は何とかなりそうだ。懸念は3楽章だが、まだ1か月以上あるのだから、手の様子も変わってはくるであろう。少なくとも、これ以上悪くならないことを願うしかない。

まるで弾けなかった頃と比較すると、いくら調子が悪いといえど、弾けると言えるだろう。ただ、もうほとんど治ったと思っていたのに、まだそうではないのだ、と思い知らされた。手が言うことをきかないと、何もかもがどうでもよい気持ちになってしまう。これだけ長く患っていても、気持ちの切り替え、割り切りがうまくできないのは変わらない。私は、何をやってるのだろう。一体、いつまで続くのか。演奏することを、許してはもらえないような、気がする。

本番2週間前 (2004年8月)

気が付くと、本番まで後2週間となった。今は、正直言うと...無理な力が入って手が捻れ、1小節弾いては止まらなくてはならないという、よくよく考えると、とても舞台になぞ上がれそうにない、何とも恐ろしい状況だ。それでも、今のところ、キャンセルすることは考えていない。最悪、曲目変更してでも、やろうと思っている。今からプログラム印刷の変更はきかないので、迷惑をかけることには違いないが、ドタキャンよりはマシであろう。
ここまで悪化したのは、いつもの大波に加え、怒涛の入力作業も影響しているのではないかと思っている。数日間、明けても暮れても入力作業をしていたのだが、パソコンのキーを叩くのに違和感が大きくなってきたのと、ピアノが弾けなくなってきたのは比例していた。でも、入力の仕事はやめるわけにはいかない...

パソコンとピアノの因果関係はよく分からないが、たしかに、ピアノが弾けるようになると、パソコンだって打ちやすくなるし、逆もまた然り。入力作業が終わって、しばらく必要最小限しかパソコンキーを打たないようにしていたが(打つ気力もなかった)、だからといって、ピアノが弾けるようにはならない。ジストニアは、休んだところで治るものではないのだけれど、当分、無理なことはしたくない。

今回、手の悪化の可能性があったため、演奏会案内はほとんどしてこなかったが、まぁ大丈夫だろうとふんでいたので、演奏会が近くなったら、もっと案内するつもりでいたのに...concertページの演奏会案内も、削除することにした。手さえ良くなれば、曲は大まかなところはできているので、弾くのに問題ないが、細かいところを詰めていく練習がほとんどできていないので、どのみち、不本意な演奏になることは目に見えている。練習さえできれば、いくらだって努力するのに...くやしい。どんなに大変なことであっても、報われても報われなくても、思うように「努力することができる」というのは、それだけでしあわせなことなのだと感じる。

演奏会出演は、時期尚早だったかも知れない。聴きに来てくれるという友人知人には申し訳ない気持ちでいっぱいだが、どういう状況になろうと、精一杯ベストを尽くしたい。

あとには引けない (2004年6月)

大波の続く左手。たしかに、どんなに調子が悪くても、全く弾けないということはなくなったが、手が捻れるような感覚が起こったり、縮こまろうとしたりで、コントロールが効かなくなるのだ。弾ける曲も限られている。そんな中、9月のジョイントコンサート出演の話があった。先週末、散々迷った挙句、無謀にも出演する旨返事をしたが、今月のとあるピアノサークルで弾かせてもらい、その出来次第では断るつもりでいた(まだ融通がききそうであったので)。
たしかに、思うようには弾けなかった。文字通り薄氷を踏む思いで、細かいコントロールがうまく効かず、手さえうまく動けばできるのに...という箇所も多々で、くやしくもある。しかし、自分がこう弾きたいというヴィジョンが見えてきたこと、今の時点でまがりなりにも人前で暗譜で通せたこと、あと3か月あるということを考えて、このまま出演という方向で頑張ってみようと決めた。

もし、ドタキャンなんてことになったら、人に迷惑もかかるし、自分もつらい。それは分かっているのだけれど、もし、これ以上良くならないものなら、「この状態でやっていく」ことを考えていかなくてはならないし、このままじっとしていても何も変わらないのでは...と思うと、自分にガツンと刺激を与えたくなったのだ。ある種の賭け、か。

手は、どこまで快復するのか、分からない。ここまで快復したこと自体すごいことなのかも知れない(何も知らない人が私の演奏を聴いても、手が悪いなんて恐らく分からないと思う)。ともあれ、たとえ手が治っても、体調や気持ちの上で、いつもベストの状態で演奏できるとは限らないものだ。そういや学生時代、指先を傷めて、一週間練習できずにハイ本番!ってこともあったっけ。そういう時に、火事場の馬鹿力(?)で、意外にも悪くない演奏ができたり。ゆえに、これもひとつの経験。やるからには精一杯のことはやりたいし、どう転んでも、自分の肥やしにできればと思っている。

大きな波 (2003年11月~2004年1月)

結構弾けるようになったかと思えば、また振り出しに戻ったように弾けなくなったり、そんな状態が交互に続いている。良くなったり悪くなったりの繰り返し。その「波」が、大きくなってきているような気がする。
やはり、「良くなった」と思った次の日に、また弾けなくなっているのはつらい。「またすぐに良くなるさ」とあっさり割り切れればいいものを、「もうほとんど治ったと思っていたのに、どうして?!もう弾けないかも...」などと、ネガティブ思考で地団太を踏みたくなるのだ。これは「波」なのだと、アタマでは分かっていても、何度繰り返しても、慣れない。

弾けるようになると、「このまま治るんだ!」とついつい(?)信じてしまい、あれも弾きたいこれも弾きたい、ああしようこうしようという気持ちでいっぱいになってしまう。なので、またちょっとでも弾けなくなると、ムキになったり、落ち込んだり。でも、近頃は、少しずつ「執着しないようにしよう」という気持ちが働くようになってきた。とにかく、今できることに目を向けるようにする。そして、どういう状態になっても、あまり気にしないということ。努力は大切だけど、執着とは違うのだ、と...

病気やら事故やら天災やら、思いも寄らないことによって、自分の軌道が狂ってしまうことが、ある。予定していた道筋から外れたという意味では、それは余計なことなのだろうけれど、その「余計なこと」に意味を見出すことができるかどうかは、やはり、自分次第ではないかと思わされる。この状態がいつまで続くか分からない、先の見えないつらさはあるけれど、この経験が無駄であるとは、まだ思わずにいられるのだから。

自分なりに (2003年4月~10月)

4月の初めに病院に行き、その後、2週間くらいは頑張ってリハビリを続けた。しかし...手が捻れるような感じがし(見た目にも分かる)、ものすごく力が入ってバランスが取れず、どうにもつらくて仕方がない。どんなに遅いテンポにせよ(一音弾くのに3秒くらいかけても)、「一定のテンポに合わせる」ということができない。かなり無理すれば、何とかできないことはない。が、こんなに無理していては、良くなるものもならないのではないか?という気持ちが起こる。だんだんと、メトロノームに対して拒否反応が起こるようになり、もうこれ以上は続けられない!と、しばらく休むことにした。
しかし、メトロノームなしで弾くのは続けることに。一音弾くのに時間はいくらかかってもいいから、とにかくできるだけ力を抜き、指だけを動かすようにと心がける。すると、少し具合がよくなったようだ。「病は気から」と言うが、自分にとって、メトロノームがいかにストレスであったかも感じた(残念ながら、私にはメトロノームを使ったリハビリは合わなかったようだ。勿論、これは人それぞれだと思う)。

そのうち、調子のいい日には、少しだけ曲が弾けるようになってきた。かなり遅いテンポ、かつ、何度も止まりながらで、曲の原型を留めていないような状態。しかも、手にはひどく無理な力が入る。ともあれ、少し良くなったので、またメトロノームを復活させようと思ったが...やはり、つらくてできなかった。でも、この記録は残しておきたい、という気持ちから、こちらのページにその日の状態を、メモ程度につけ始めた。

結局、通院はやめてしまった。3か月に一度ではあっても、リハビリもしていないし、経過報告のためだけに行くのに、関東は遠すぎるからだ。数年前、一度克服したのだから、ここまで良くなれば大丈夫だろう、という思いもあった。具合は日替わり、という感じで、良くなったり悪くなったりを何度も繰り返した。、そうした大きな波はあるものの、10月、何とか、人前で演奏できるまでにこぎつけた。左手があまり動かない曲限定ではあるが、鍵盤に手を乗せることさえつらかったことを思うと、よくぞここまで快復したものだ、と、感無量であった。

リハビリの日々 (2003年1月~4月)

病院の先生に教えてもらったリハビリを実行することに。リハビリ、といっても、何か特別なことをするわけではない。とにかくゆっくり弾くこと。そして、それを数値であらわすこと。具体的には、メトロノームに合わせて指を動かす(私の場合は、オクターブとハノン1番を1オクターブ分)のだが、ものすごくゆっくりから始めて、徐々にメトロノームの目盛りを上げていく。毎日、どの目盛りで弾くかを決めておき、それを○△×の表にする。この目盛りは弾けたので○、これはできなかったので×...といったように。
何日かすると、○△×の表ができたが、その頃は、どんなに遅いテンポでもほとんど弾くことができなかったので、×と△が大半であった。多少は波もあって、△の多い日や、○のつく日もあるので、そうしてできた表を見ると、たしかに手の具合は一目瞭然だ。それは分かるのだけれど...とにかく、メトロノームに合わせるのがつらい。どんなに遅かろうと、一定のテンポに合わせることは至難の業なのだ。ものすごく無理したら弾けるけど、それって○?やっぱり△?それとも×?。何だか混乱してきて、△や×ばかりの表を見ると落ち込む。そうして、だんだんと続けることがつらくなってきた。

4月、2度目の診察。3か月分の○△×の表を持参すると、こんなにちゃんとした表を作ってきた人は初めてだ、と驚かれた。「手にものすごく無理がかかることがあるのだけれど、それでもやった方がいいのか?」等、あれこれ質問する。どうしても出来ない時は仕方ないけど、とにかく、これを続けることが大切だ、と仰る。この3か月、手の状態はほとんど変わっていない。「治るのに2、3年はかかるだろうから、変化がなくてもあきらめないように」と励まされ、病院を後にした。

ジストニアとの診断 (2003年1月)

ピアニストの手の障害を研究しているお医者さんは、関東の病院に勤務していることが分かった。関東...そうたびたび治療に通える距離ではない。どうしようかとしばし迷っていたが、たとえ通えなくても、とにかくキチンとした診断が欲しい!と思い、一度、行ってみることにした。
先生はよく話を聞いてくれた。これまで、どこの病院でもほとんど相手にされなかったので、どんなにホッとしたか知れない。しかし、私の症状は、日や時期によって変化することもあり、言葉で説明するのがとても難しい。やはり「精神的なもの」なのだろうか...しかし、先生の診断は、かねてから思っていた通り、ジストニアであった。

ジストニアとは、「自分の意思に反して体の一部に過剰な筋緊張が入るため、異常な姿勢をとったり、スムーズな運動が妨げられる不随意運動」のこと。要するに、意志通りに指が動かずピアノが弾けない(パソコンのキーも打ちにくい)わけだが、「あなたと同じ症状の人が、何人も来ています」と言われ、驚いた。海外の著名なピアニストもいるらしい。そして、多くが治っているという話に、どれだけ安心させられたか知れない。

ジストニアの詳しい説明。これは、一種の「ど忘れ」とのこと。たとえば、簡単な漢字を忘れたり、人の名前をわすれたり、といったことは誰にでもあり、そういうことは、辞書を引くなり人に訊くなりすれば、すぐに思い出せる。しかし、身体で覚えたことというのは元々あいまいなもので、一旦わすれると、すぐには思い出せない。たとえば、スポーツ選手。プロ野球選手が、ある日ホームランをバンバン打つかと思えば、2、3日後には全く打てず、フォームすら変わっていたりすることがある。「身体の記憶」がいかにあいまいなものであるか、ということだ。

それは、よく分かる気がする。ピアノでも、昨日まで出来ていたことが、今日はできなかったりということは、私の場合、よくある(それは、ハタから見てもあまり分からない程度のことだと思うが)。「何だかよく分からないけど調子悪い。ま、仕方ないか」という感じで、本番をそういう状況で迎えないよう気をつけてはいたわけだが、そういうことか...「身体の記憶」が確かな人と、そうでない人の差は、あるのではないかと思う。

今、私が弾けないのは、ピアノを弾く上での初歩的な記憶が欠落してしまっているため起こっているとのこと(たしかに、バイエルもまともに弾けない状態)。身体に、その記憶を思い出させるには、どうすればよいのか...薬や手術で治るものではなく、とにかく「弾く」しかないのだ。リハビリ的な弾き方(基本的には、バカみたいにゆっくり弾く)ことを教えてもらい、しばし実行することに。

いつかは治ることが分かったが、いつ治るかは、分からない。2、3年くらいはかかるのではないか、との話に、道のりの長さを感じた。


弾けなくなって (2002年1月~12月)

年明け1月と3月に喫茶店ライブ、2月には門下生の発表会の予定があった。これらを無事こなせるだろうか...この頃は、弾けないといっても部分的なもので、曲さえ選べば、何とか人前でこなすことはできた。ただ、大曲難曲はまず無理で、ゆっくりした、技術的にも易しい曲のオンパレード。が、弾いているうちに良くなるのではないか、という希望を捨て切れず、まだやれる!と、何とか頑張っていた。
しかし、どんどん悪化の一路を辿る。3月のライブを何とか綱渡り的状態でこなしたが、残るは、ステーキ屋さんBGMの仕事。ここで演奏するのは、半分眠りながらでも弾けそうな易しい曲ばかり。しかし、それすらも弾くのが困難になってきた。簡単な単音の連続ですら、手が泳ぐ。そのうち、鍵盤に手を置こうとしただけで、ぐにゃっと手が曲がり、ガチガチに力が入るようになってしまった。もう弾けない...4月いっぱい、何とか続けたが、最後の曲を弾き終え、帰りの駅のホームで「もうこれで、人前で弾かなくてもいいんだ」と思ったときの安堵感は、わすれることができない。

前回の教訓として、ピアノを休んでも治らないことは分かっていたので、何とか毎日ピアノに向かうように努力した。今回は、症状は左手のみ。左手に右手を添えて、鍵盤にのせる。手にぎゅっと力が入り、ドミソの和音ひとつ弾けない。前回と同じ症状だ。一旦克服したのだから、今回だって大丈夫!と考えるも、今の手の状態を目の当たりにすると、治る日が来るとは信じられず、落ち込むばかり。

その頃、あるお医者さんの本に出会った。ピアニストの手の障害を専門に研究しているお医者さんだ。診てもらうなら、この人しかいない!それと同時に、インターネットであれこれ調べているうちに、自分の症状は「ジストニア(自分の意思に反して体の一部に過剰な筋緊張が入るため、異常な姿勢をとったり、スムーズな運動が妨げられる不随意運動)」ではないだろうか、と思い始めた。


再発の予感 (1997年8月~2001年12月)

手が治って、少しずつ演奏の機会を持てるようになり、本当にうれしかった。またコンクールを受けたり、室内楽を経験させてもらったり、良い師匠や仲間に巡り合えたり、その時々で悩みはあっても、振り返るといいことづくめだったように思う。
しかし、少しずつではあるが、左手のオクターブが弾きにくくなってきていることに、気付いていた。もともと、超絶技巧系の曲は苦手なのだが、選曲がますます地味系に偏ってきた。でも、曲さえ選べば特に問題なくやれる程度。少々無理をしても、これ以上悪化することはなさそうだ。喫茶店ライブをやらせてもらえるようになり、とても楽しかった。わすれもしない、2001年の夏。「もし、また弾けなくなったら、私、ノイローゼになってしまうかもなぁ」と、ふと、思ったことを...

2001年は、とてもいそがしかった。喫茶店ライブは1、2か月に一度のペースで、1回につき、約40分の曲を準備しなくてはならない。いつでもどこでも弾けるようなレパートリーがろくになかった私は、毎回必死だった。何を弾こうかと準備するのは、楽しくはあったものの、続くと、時折音をあげたくなることもあった。大学の仕事に加え、週2回、ステーキ屋でBGMの仕事もしていたので、練習時間確保に、いつもあくせくしていた。

年末に、ジョイントコンサートの予定があり、一人の持ち時間は30分。何か大きなソナタを1曲、と考えていたのだが、9月頃、左手の不調に気付いた。オクターブが弾きにくい、どころではない。これはちょっと、おかしい。しかし、喫茶店ライブも、年末のコンサートも待ってはくれない。特に、年末のコンサートは、早く曲目を決めなくてはならない。あれにしようか...でも、あそこが弾けない!それならこの曲は...これもダメ!と、二転三転。結局、何とか支障なくこなせる小品の寄せ集めとなってしまった。でも、この程度ならまだやれる。これ以上悪化しないことを祈っていた。

いつの間にか、克服 (1995年10月~1997年7月)

11月に、知人の結婚披露パーティーで、ピアノを弾かないかという話があった。歌の伴奏なのだが、いろいろあって(?)、どうしてもやりたかった。なんとか弾けるように簡単にアレンジしてこなしたのだが...この時点で、どんなに簡単であれ、人前で弾けるくらいに快復している!夏頃は、たしかに、和音ひとつ弾くのさえ、できなかったはずなのに。
当時の手の状態の記録は、全く残していない。記録を残したところでしょうがないと思っていたし、もうなるべく、手のこと、ピアノのことは考えたくなかったからだ。だから、何をして、どんなふうに快復していったのか、具体的にはさっぱり思い出せない。ひとつ確かなのは、「ある日、突然治った」のではなく、本当に少しずつ、良くなったり悪くなったりを繰り返して治っていった、ということと、短時間でも毎日のようにピアノに向かっていたことだ。

1996年の10月、かつて励ましてくれたピアノの先生と、ある演奏会場でバッタリお会いし、休憩時間にお話した。手が治ったことを、本当に喜んでくれた。今、何の曲をやってるの?と訊かれ、ショパンの舟歌と、スクリャービンの4番のソナタと答えたことを覚えている。次の年の夏、久々に舞台を踏んで、「またやれる!」と、本当にうれしかった。克服!!!しかし、そうは問屋が卸さなかった...

あきらめの心境 (1995年4月~9月)

卒業直前だったか、以前のピアノの先生に相談に行く。昔、先生のお弟子さんの中にも、私と同じ症状の人がいたとのこと。1人は治るのに3年かかり、もう1人はピアノをやめてしまった、と...先生は「筋肉のバランスが崩れているのでしょう」と仰る。そして、先生自身、ある病気で5年間、全く弾けなかった経験を話してくれた。「きっと治りますから、あきらめないでください!」の言葉が、その後、どれだけ励みになったか知れない。
卒業後、音楽とは関係のない事務の仕事をするようになった。職場の人間関係もよく、インターネットの世界を知り、毎日楽しく過ぎていった。ただ、手は悪化する一方。ハリは続けていたが、もうこれ以上続けても無駄かな...と、見切りをつける。夏、1か月間全くピアノに触れないでおこうと決心。これだけ休めば、良くなるかも知れない、という希望を持っていたが、1か月後、ピアノに向かうも、全く快復の兆しはなく、「休んでも無駄」ということが、よく分かった。

片方の手を、もう一方の手で支えて、何とか鍵盤に乗せる。ぐにゃぐにゃと思い通りにならない手を、もう一方の手で固定させ、ドミソの和音を押さえる。ここまで、何秒もかかる。しかし、手を離すと、もう和音を押さえていられない。そんな、何かの冗談みたいな状態が、一体どのくらい続いたろうか...「あきらめたくない!」と、そうしたことを細々と続けてはいたものの、「もうダメかも...」という気持ちも膨らんできて、クラシック音楽を聴く気持ちが全くなくなった。ピアノを見るのもつらく、毎日のように、寄り道をして帰った。

これまで、まわりは音楽繋がりの友人ばかりだったが、その友人達と少しずつ疎遠になり、代わりに、職場繋がりで、全く音楽に関係のない友人ができた。ドライブやカラオケなど、わいわいと楽しく、よく遊んだものだ。ピアノのことは、なるべく考えないようにし、そのうち「弾けなくっても、楽しいことはあるんだ」「このまま、弾けなくっても仕方ないかな」という心境になってきた。

最初の兆候 (1994年9月~1995年3月)

大学院2回生だった1994年の9月。ちょうどこの頃、ある就職試験とコンクールの両方に落ちた。どちらも「受かればラッキー」くらいにしか思っていなかったので、「落ち込んでいる」という自覚はまるでなかった。それより、4月から、それまで師事していたピアノの先生を、学校側の都合で勝手に変えられて、新しい先生とうまくいかないことの方が気がかりであった。
そんなある日、右手のオクターブを弾く時、違和感のようなものを感じるようになった。オクターブを連続で弾こうとすると、意志に反して4、5指が内側に曲がってしまい、連打をするのが非常に難しい。私は元々、調子の波があるタイプで、始めは「何だかよく分からないけど調子悪い。ま、そのうち治るか」くらいにしか思わなかった。

ところが、いつまでたっても治らないどころか、どんどん弾けなくなっていく。修了試験を控え、焦りは募る。一体何なのか...あちこちの整形外科を廻るが、どこへ行っても「疲れてるんじゃないの?」と、湿布を出されて終わり。理学療法、ハリ、灸、整体...試せるものは何でも試し、果ては「精神的なものでは」と言われ、カウンセリングまで受けた。しかし、何をやっても悪化の一路を辿る。

カウンセリングでは、就職試験とコンクールに落ちたこと、先生が変わったことのショックが原因だと指摘されたが、私の中では、精神的なものより身体的なものだという感覚がどうしても拭えなかった。しかし、カウンセリングは、弾けないという不安や、人間関係の問題等あらゆる話を聞いてもらえたのがよかったと思う。

修了試験は、シューベルトのソナタ21番。技術的に込み入っていない作品を選んでいたのは、不幸中の幸い。オクターブ連打の箇所は、音を省いたりして何とかこなそうと努力する。でも、こんな演奏で卒業しても...試験を受けずに、卒業を延ばそうか、と考えていた矢先、阪神大震災が起こった。試験は、震災の4日後。何とか学校にたどり着き、ほとんどやけくそ気分で試験を受け、結局卒業した。3月、修了演奏会をなんとかこなした後、ほどなくして急速に悪化し、バイエルを弾くのすら困難を感じるようになってきた。


はじめに (2003.4.8)

先月だったか、ある音楽雑誌に、ピアノを弾く際、指が思うように動かなくなった人の手記が載っており、興味深く読んだ。その症状から察するに、おそらく、私と同じジストニアであろう。が、その人は、あらゆる病院を廻るも相手にされなかった。絶望してピアノをやめ、何年かして、ほんの少しだけ回復し、簡単な曲を人前で弾けるようになったという、そのいきさつなどが記されていた。
私が通い始めた病院のお医者さんによると、こうしたピアニストの不随意運動(意志通りに指が動かない)が、単なる精神的なものでなく、ジストニアという病気であることが認知され始めたのは、世界的にみてもここ10年くらいだとのこと。そして、まだまだ一般的に認知されているとは言えず、どの病院でも相手にされないことが多い(私もそうだった)。ピアニストというのは、小さい時からピアノ一直線な人が多く、それゆえ神経質であったり、精神的に偏ったところがあるとみなされがちで、こういう症状が起こっても「精神的なもの」と受け取られるのが関の山、という現状である。

ヨーロッパに留学中の学生さんのWeb日記に、「音楽家における職業特有の健康障害の予防」という学会の報告が載せられている。スポーツ医学は随分進んでいるものの、音楽の分野は、まだまだ未開発。少しずつ、音楽家の職業病を研究する場所が整って、音楽家の職業病が改善されるようになってきたというのは嬉しい限りで、この学会では、ジストニアも取り上げられているようだ。今後ますますこの分野の発展を望むが、私自身、この病気と客観的に向き合いたいということと、同じ病気に苦しむ人の励みになることがあるかも知れない、と思い、ここに、ジストニアのことを記していきたいと思う。

はじめに書いた、音楽雑誌の手記の著者に、ジストニアではないか、と指摘する人はいなかったのだろうか...思うように指が動かなくて、病院でも相手にされなくて、もうピアノをやめてしまおう!と思っている人が、このページを見て、「これは治る病気だ」と希望を持ってくれたなら...という願いをこめて。

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